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ヘム舞台挨拶

「ヘム」今日の舞台挨拶

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今、137万人
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『海霧』トロント国際映画祭、ガラ・プレゼンテーションで期待集まる

[2014-08-26 19:08:19]
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【26日=KEJ金善花】ウォールメイドスリラー『海霧』が第39回トロント国際映画祭のガラ・プレゼンテーション部門でレッドカーペッドを歩き、“ガラ・スクリーニング”で世界中の観客にお目見えする。

アジア映画で唯一、第39回トロント国際映画祭、ガラ・プレゼンテーション部門に公式招待され韓国映画の底力を見せ付けた『海霧』が9月9日(トロント現地時間)の午後6時30分に海外の観客たちに初披露となる。トロント国際映画祭は、カンヌ、ベニス、ベルリンに続く世界4大映画祭で、北米最大規模の公式競争部門がない観客賞の映画祭と呼ばれている。

海外のマスコミ、VIP、現地の観客を対象として大規模な試写会“ガラ・スクリーニング”は、トロント国際映画祭のメイン上映館として最大規模を誇るRoy Thomson Hallで開かれる。今回の映画祭では『海霧』のシム・ソンボ監督と女優ハン・イェリが記者会見とレッドカーペッドなどの公式イベントにも参加する予定だ。

またレッドカーペッドは、『海霧』が招待されたガラ・プレゼンテーション部門で行われるイベントとあって、韓国の映画監督と女優が海外メディアと現地の観客の大きな関心を集めるだろうと期待される。

今回『海霧』が招待されたガラ・プレゼンテーション部門には『グッド・バッド・ウィアード』(08)、『ハウスメイド』(10)、『監視者たち』(13)などが上映されたこともあり、韓国映画としては4度目の公式招待となる。先日の第67回カンヌ映画祭マーケットでたった10分のプロモーションにも、日本、フランス、台湾、香港、シンガポールの5ヵ国に販売された『海霧』は、今回の北米プレミアを前にバイヤーたちの大きな反応を呼んでいる。

『海霧』は大漁の夢を抱き、出航した6人の船員が1寸先も見えない海霧の中を、密航者たちを乗せながらどうすることもできない事件に巻き込まれていく映画で9月9日にトロント国際映画祭で韓国映画の底力を披露することだろう。
元記事へ



<海霧 海外の行歩>

1、第39回トロント国際映画祭。
2、第62回サンベスティアンフィルムフェスティバル。
3、第33回バンクーバー国際映画祭公式招待 。



「ヘム」が次々招待されているのは嬉しい

これで「賞」を取ると

観客動員数が飛躍的に増えると思うんだけどな~・・・

頑張って舞台挨拶しているユチョンたちが報われるといいな~


(画像はすべてお借りしています)







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ユ・スンモク
「『海霧』は自分自身を振り返る契機になった作品」


MYDAILY |2014年08月25日18時53分
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映画「海霧」には多様なキャラクターたちが登場する。彼らは極端な状況に見舞われた時、それぞれ違う本能を現す。一寸先も見えない瞬間が訪れた時、即座に現す反応、これが「海霧」の妙味である。

船長であるチョルジュ(キム・ユンソク)を始め、6人の船員の中で俳優ユ・スンモクが演じたギョングは、お金を一番大事に思う人物だ。女好きだが、結論はお金だ。自身に金銭的な利益が生じる瞬間を逃さないが、これはギョングの性格を代弁してくれる。

家族がなく、深く考えない。純朴な田舎の青年であり、船員の中で外貌をもっとも重要視する。ギョングのヘアスタイルはこれを端的に見せる。そのため、初めの「海霧」のシナリオではギョングは悪質な人と設定された。

「シナリオを読んだ時、一般的で平凡な1人の船員だと思った。船員であり、ただ自身の欲望を満たすために利己的な姿を見せる。そのような姿の中ででたらめな部分もある。それでもギョングは純朴な姿を持っている青年だと思った。深く考える人物ではなく、この瞬間の欲望を満たすために反応する人物として設定した」

すべての船員たちと同じくギョングも海霧のせいで先が見えない時、最悪の状況に見舞われるほどに本性を現す。直接ギョングになって見ないと行動を把握するのは難しい。ギョングの感情を理解するのも重要だった。

「実は行動は簡単に把握した。ギョングの基本的な性格を把握してからスタートしたからだ。もっとも大変だったのは極端な状況に見舞われた時、どうやって表現するかだった。たくさん悩んで話し合った。しかし、実際撮影に入ると、自然にそのキャラクターを演じていた。他の俳優たちも同じだった。撮影する前までは大変だったが、実際に撮影する時は楽に撮ったようだ」

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「海霧」を見ていると、道徳的なジレンマに対しても話すようになる。それがいくら人間の本能だとしても、演技をする俳優の立場では道徳的に感じられる部分だった。

「これも撮影の前に悩んだ。果たして皆がそのように行動をするのか。すぐその状況に遭ったかのように進めるのかと心配したが、その状況に見舞われたらその方法しか、それがもっとも良い解決策だと思った。それで撮影する時は道徳的なジレンマは感じなかった。その方法が我々(チョンジン号の船員たち)が生き残る方法だと思った」

「海霧」に出演した俳優は皆、船で撮影する時の苦労に対して明かした。ユ・スンモクも同じだった。船での撮影が大変であることを感じ、単純に船酔いの問題だけではなかった。陸地とは違う撮影だった。

「簡単な作業ではないとたくさん話した。幸いなことに、僕は船酔いがひどくなかった。後半の二日ほど、船酔いで苦労した。しかし、没入が良くできるという長所もあった。船だけではなく宿所でも船員同士で集まって、寝る前まで作品に関して話した。自然に家族のような関係になった」
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ユ・スンモクが「海霧」に出演するまでの過程を説明するためには、映画「殺人の追憶」まで遡る。良い作品(海霧)があると聞き、「殺人の追憶」に出演したユ・スンモクは製作者として参加したポン・ジュノ監督に連絡した。

「良い作品があると聞いて、僕から先にポン・ジュノ監督に連絡を取った。もし僕が出演できる機会がないかとメッセージを送った。そうすると『僕はスンモクのファンだが、監督が違う』と言われた。シン・ソンボ監督だった。シナリオを読んでギョング役に自身があった。あえてそんな話をしてギョング役にキャスティングされたため、撮影をしながら負担を感じた。どうしてあんな話をしたのかと後悔し、上手くやれているのか気になった」


ユ・スンモクは「海霧」に出演する前にも多数の映画に出演した。「海霧」を通じてユ・スンモクという俳優を人々に知らせるようになった。それほど特別な作品になるかもしれなかった。確かに特別さはあったが、人々が思う“特別さ”とは少し違った。

「初めにはチョンジン号という船に乗れることができ、嬉しかった。本当に感謝し、運があると思った。今回の作品を通じてユ・スンモクという俳優を人々に知らせることを願うよりも、作品を通じて感じたことが多かった。今まで僕が出演した作品たちを振り返って見た。良い俳優たちと良い演技をするためには努力すべきだと反省し、自分自身を振り返る契機になった作品である」

元記事配信日時 : 2014年08月22日09時20分
記者 : イ・ウンジ、写真 : ハン・ヒョクスン









ここからの記事は「ヘム」の内容と結末があります。知りたくない形はパスしてね。





不快な「ヘム」、朝鮮族を全滅させるためではない可能性があり

記事入力2014.08.26 11:54
[オーマイニュースイ·ジョンヒ記者]

▲映画<ヘム>の一場面。
ⓒNEW
*記事に映画の内容と結末が含まれています



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8月13日に公開された「ヘム」が青少年観覧不可という障壁を突き抜けて6日ぶりに100万観客を突破した。これは、1000万人の観客の記録を樹立しても、まだ勢いの興行をしている<鳴梁>と全体観覧可の<海賊>の興行が行われている中で、作品性だけを信じて、年齢ジェハンガを監修したゴジンガムレの達成だ。

このような<ヘム>の成果は、同じ青少年観覧不可映画だった<神の一枚>や<おじさん>に比べてもすぐに達成され、独自の配給網を持つCJとロッテを相手にした投資配給会社NEWの苦労の結果だからこそ、意味がある。

しかし、状況は難しいない。青少年観覧不可の映画でこの程度の記録であれば、無難に損益分岐点を超えることができると予想されるが、劇場チェーンを持たないニューの「ヘム」は、他の映画の上映館寡占を越えられず、上映館が縮小されている境遇にある。見たくても安心して見づらくなったのだ。 19禁スリラー最高の興行作<追跡者>より2日高速100万観客を突破したにもかかわらず、この状態であれば、200万高地はもちろん、損益分岐点は、考えることさえできなることもある。

<ヘム>でキャプテンの役割を引き受けた俳優キム·ユンソクが、この映画を置いて「勇敢な選択」と表現したインタビューを通じて垣間見ることができるよう、審議の過程で、15歳観覧可のバージョンまで用意していた映画は、元の作品がうとしたバー放棄したくない'19金」を監修した。だからかな?映画に出会った人の中には、<ヘム>が見せてくれた船上史を勝ち抜くない場合が多い。

また、そのような渦中でも咲く船員ドンシクと朝鮮族紅梅(ハンイェリ分)二人の男女の露出した愛の好き嫌いも分かれる。序盤に末っ子の船員ドンシク(パク·ユチョン分)を救うために体を飛ばし、船に斧をまくっていた人がヘムが縁取られたチョン·ジン号の中で阿鼻叫喚の対立を見てことに対する急激な温度差にも「映画的完成度」を論じる場合もある。

<ヘム>、「海に行った<雪国列車>」という解釈
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▲<ヘム>のドンシク(パク·ユチョン分)と紅梅(ハンイェリ分)。
ⓒNEW

しかし、そのような「リアリティ」としての物語を越えて、「ずっしりと隠喩の網を張って密かに思って餌を投げる」は、映画評論家シム·ヨンソプの評価のように、私たちの社会を象徴する存在としてジョンジン号と、この社会を生きていく人の顔ぶれとしてジョンジン号船員を念頭に置く起動すると、<ヘム>は違って見える。まるで<ライフ·オブ·パイ」で少年と一緒に船に乗って虎の解釈を異にする瞬間、映画が尽きない哲学的言説の海に落ちるようにだ。

だから<ヘム>を象徴的に解釈し始めた人は、それぞれ別の映画の醍醐味に陥ることがある。まずは、この映画の製作者が、ポン·ジュノ監督であることを前提に、彼は<雪国列車>を介して私たちの社会の矛盾階級関係を列車の分割されたセルを使用して説明しましたように、<ヘム>は「海に行った<雪国列車> 'と解釈する観客がいる。船長チョツジュは既成世代を代弁して、彼らの秩序を擁護する支配階級を象徴し、機関長や彼の決定に呼応する船員は、既成の秩序に順応する人に解釈が可能である。

ここで面白いのは、密航をするために乗った朝鮮族の解釈も、他の醍醐味を持つという点である。その中で密航の渦中でも本を読んで見る朝鮮族先生は知識人の象徴として位置づけている。船長が乱暴に密航者を追い詰めるときに最も先頭に立って朝鮮族たちを督励して魚層に下り、彼の姿は、体の弱い人の知識人の典型的で象徴されてなるという解釈することもあるということだ。

そうジョンジン号を「海に行った雪国列車」として解釈すると、ドンシクの愛はただ愛がない。金と権力に順応する既成世代の秩序に反旗を持ち上げる若い世代の情熱であり、純粋さを象徴することになる。チョン·ジン号を救うために手段と方法を選ばないキャプテンチョルジュに向かって疾走する自動式は、もう一人の尾カーン乗客に解釈することができる。そうなれば、陸に歩いて出てきたドンシクの紅梅は<雪国列車>最後のシーンの白い雪原の上に投げられたヨナ(コ·アソン分)の「マクマクハム」と変わらない。

船員ドンシクは父を殺したオイディプスと似ている

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▲映画<ヘム>のドンシク(パク·ユチョン分)。
ⓒNEW

このような社会的·階級的観点から見た<ヘム>をより幅広く神話的領域に拡張解釈することもできる。つまりオイディプスをはじめとする神話の中の若者たちが父の世代を克服するために、父を殺す 'サルブ」の形式のコースを渡るように、ドンシクこの愛はまさにそのような父の世代を克服するための叙事的形式として解釈することができるものである。

倍に女神が象徴に入れると女性の名前を付けたように、神話的象徴で船は女性を象徴する。だから父の世代は、自分たちの女性であるチョン·ジン号に別の女性紅梅などが乗ることに不穏な兆候にしている。そして当然、若い世代は、父の世代の女性ではなく、若い女性に魅了されて父の世界を破壊する。

しかし、これは破壊ではなく、誕生である。ドンシクは紅梅のトンボを用意するために布団などを持ってきて、手にリンゴた卵を一緒に持って来る。私たちが知っているエデンの園のその善悪を知る木の実を象徴するようなりんごをだ。アダムとイブが善悪を知る木の実を分けて食べた瞬間、これ以上彼らにエデンの園が楽園ではないように、愛をするようにしたドンシクの紅梅に父の世代の不穏な空間ジョンジン号は彼らに幸せをもたらさない。

彼らは自分の幸せのためにチョン·ジン号を破壊し、父を殺すが、オイディプスがそうであるようドンシクがも、その対価がひたすら幸せではない。楽園を去ったアダムとイブの生活の苦難をそのまま受け入れるしたように、ドンシクと紅梅が会ったのは現実である。最終的にサルブの罪科を勝てず、自らの目を刺したまま旅に出たオイディプスと、紅梅を求められますが、彼女を失ったまま日雇い労働者になって中国人街を転々とするドンシクは、他のように変わらない。

ドンシクと紅梅の挑発的な愛は、まるで<禁じられた遊び>の少年と少女のようだ。親を失ったまま、戦争孤児になったポルレトゥを幸せに接触のために宗教的なタブーを破った少年の行動は、紅梅の一言に袋叩きに合った朝鮮族密航者を身に防いでくれる自動式のメンモクソンにつながる。

ワンホアゼ(ムン·ソングン分)の死の後、彼らは行った涙の恋愛は、愛ではなく、生存に向けた絶望の中もがいに近い。戦争と死の恐怖を忘れてと禁じられた遊びをする子供たちのようにね。しかし、<禁じられた遊び>の若くて弱いポルレトゥとミシェルが大人の世界の中で一緒にすることが、その何も持つことができないように、世界の中で出てきたドンシクの紅梅は無気力に実質世の中に流されて行く。

観客各自の生活に応じて、違ってみえる映画

▲映画<ヘム>の中ジョンジン号の船長チョルジュ(キム·ユンソク分)。
ⓒヘム
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奇妙なことに、<ヘム>は、最初の観覧時は映画の刺激状況に目を奪われた場合、そのような状況を一度ろ過した二回目以降の観覧は映画の中の人物たちがより多くの目に入ってくる。その中でも最も目を引く場面は、まさに船長チョルジュの最後である。船を生かすために帆を上げてあげた彼は、その帆をひとつひとつたロープに足を巻く。

おそらく<ヘム>を見た多数の観客は、チョルジュをこの時代を生きていく父の象徴として共感したのだ。チョルジュだけではなく、私たちの社会で生き残るためにあくせく苦労を書くそれぞれのキャラクターとしての人間群像である。誰かは家の保存のために、別の誰かはお金のために、あるいは誰かは良心のために、そして他の誰かは、自分の考え方、あるいは満たされない欲望のために、そして愛のために、現実を生きる私たちの大半は、コアを<ヘム>はコック付く。

本物の<ヘム>が不便であれば、それはチョン·ジン号の中で行われた朝鮮族モールサルサからではなく、まさに残酷なほどリアルに描き出した人間群像の姿であろう。島に漂流した25人の少年たちが見せた露出した人間の本性<パリ大王>の海上版のバージョンに相違ない。そのような真実を直視するのが不便な​​ことを表面に現れた残酷な描写でミョンピしようとしているのかもしれない。

観客が出したこれらの複数の解釈の中でどれが正しいと言うことができないというのが映画<ヘム>の本当の醍醐味だ。今あなたを虜にしている悩み、あなたが見ている社会、あなたが見ている生活に応じて、<ヘム>は霧の中で、他の姿で映画を見ている人を見つけていく。だから見るたびに違う評価も目立つ。

もちろん劇場に行って必ず深刻な映画を見るべきであるわけではない。しかし、今年一年、あまりにも多くの事を経験して、私たちの社会の肌を守って本私たちは、数回の笑いで、簡単に忘れたり、盲目の指導者のための香水では、すべてのものを削り取らは代わりに、<ヘム>を介して、私たちが考えている世界がどれかもう一度「思考の餌」を投げてみてはどうか。
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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2014/08/26(火)19:45

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